なぜブログを書くのか
- 堀部薫
- 7 日前
- 読了時間: 4分
こんにちは、もう4年の堀部です。今日の稽古には櫻井さんがいらっしゃいました。いつもありがとうございます。また、新入部員が2人とも参加してくれ、技を教えるたびに目を輝かせている姿に、思わず初心に帰ってしまいました。気温が上昇してきたので、熱中症に気を付けながら練習に励んでいきたいです。
さて、最近私は趣味で「note」というプラットフォームでの執筆活動に勤しんでいます。関係者の皆様にお見せするには少々気恥ずかしい内容ですので、アカウント名は伏せさせていただきますが、日々書く中で思うところがありました。そこで今回は、映画ではなく「ブログを書く意味」について語ってみようと思います。本当は視聴済み映画のリストが溜まっているのでそちらを優先すべきなのですが、ご容赦ください。
noteを日常的に利用されている方や、昨今のAI技術に詳しい方なら、最近は「Claude」などのAIを用いた全自動の執筆・投稿が盛んに行われていることをご存知かもしれません。従来の対話型AIであれば、人間がチャットで指示を出し、生成された文章を手動で公開する手間がありました。しかし最新の自律型AIは、一度指示を与えれば、テーマ設定から情報収集、執筆、そして投稿までをすべて自動で完結させます。実際、ネット上にはAIによって生成されたことが一目でわかる無機質な投稿が散見されるようになりました。
では、AIが有益な記事を瞬時に量産できるこの時代に、なぜ人間があえて拙い文章を書く必要があるのでしょうか。
一つの理由は、書くことそのものが貴重な自己対話になるからだと私は考えます。私の場合、未知の体験の中で動いた感情を、後で思い出すための記録装置として書き始めました。人間の記憶というものは不思議なもので、時間の経過や些細なきっかけで容易に改竄されてしまうものです。心理学におけるロフタスとパルマーの実験などがその証左でしょう。記憶が色褪せても鮮明に復元できるように。仮に嫌なことが起こっても、そのすべてを嫌いにならないように。自分自身の心の拠り所を作るために、私たちは文字を綴るのかもしれません。
また、言語化することで思考が整理されるという利点もあります。例えば、大学で興味のある分野を学習している際、ある程度進むと全貌が見えなくなったり、曖昧な理解のまま流してしまったりする部分が必ず生まれます。それを他人が読んでも理解できるようにまとめる過程で、自分自身の理解の不備に気づき、修正することができます。その文章が結果的にネットを通じて誰かの役に立てば、なお素晴らしいことです。AIには汲み取れないことの多い、初心者が躓きやすい生身の苦労が見える文章には、唯一無二の価値が宿るでしょう。
こう表現すると、「書くプロセスが大事であり、他人の評価は二の次」という結論になりがちです。では、実用性でも創作性でもAIに劣る可能性のある人間の文章を、あえて衆目に晒す意味とは何でしょうか。正直なところ、私はまだその明確な答えを持っていません。機械を超えた人間ならではの温もりや発想力といった言葉も、どこか疑わしいからです。結局のところ、「AIは偽物、人間が本物」という、ある種の先入観や特権意識に過ぎないのでしょうか。最近はそんなことばかり考えてしまい、勉強が手につきません。どなたか、納得のいく答えを教えていただければ幸いです。
少し哲学的な話に逸れてしまったので、最後に、私のような凡人が少しでもマシな文章を書くために採用している手法を紹介して締めたいと思います。私は内容上特に「繊細な感情表現」を心がけています。すべてを「楽しい」「悲しい」あるいは「エモい」といった記号的な言葉で済ませてしまっては、正確な記録装置としての役割を果たせません。そこで、こちらの『感情ことば選び辞典』(旺文社)を片手に執筆しております。





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